床にまで広がる住まい手の興味 | フローリング総合研究所
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2019.02.28

床にまで広がる住まい手の興味

エル・デコ ブランドディレクター
木田隆子

『エル・デコ』(株式会社ハースト婦人画報社)ブランドディレクター。1990年『フィガロジャポン』〔株式会社阪急コミュニケーションズ(現・株式会社CCCメディアハウス)〕の創刊に関わり副編集長に。同社にて1998年『ペン』の創刊に関わり、後に編集長に就く。2005年12月から2014年6月までハースト婦人画報社にて『エル・デコ』の編集長を務め、その後ブランドディレクターに就任、現在に至る。2009年6月から2010年8月まで『エル・ア・ターブル』編集長を兼務していた。

「何もない床」が日本人の高い美意識を養ってきた

日本人にとっての“寛ぎ(くつろぎ)”というのは、床に寝転がること。そんなところに、私たちの床との付き合い方の原点があると私は考えています。

仲間内で集まって、皆で床に車座になってお酒を飲んだり、一緒にゴロ寝したりということが親しさの証。私たち日本人が、なぜそのような形で床と非常に近しい関係にあるかというと、日本特有の「 何もない床」というのが大きく影響しているように思います。

日本の伝統的な住まい、暮らし方は、家具も何もない床だけがある空間というのが基本でした。
家具を通して、人間の家の中の行為が成り立つようになったのは明治維新以降になってからでしょう。「何もない床」だけがあるということが、むしろ無限の可能性や創造力に繫がってきたような気がします。

例えば、一つの床で、食事も休養も、学びや語り合いもできてしまうのが、日本の床です。西洋では、まず家具がなければ何もできません。ダイニングテーブルがなければ食事もできませんし、ベッドがなければ寝ることもできません。
日本は家具を必要としない「何もない床」から始まる文化だからこそ、一つの空間にいろんな機能をもたせることができました。それは違う言い方をすれば「もとい」の文化。何もない空間に戻ることが正常な状態だ、というような文化です。そこから、空間の使い方、道具に対する考え方、そして自身の内面などを、「床の上」で独特の身体感覚を使って磨いてきたのが、日本人だと思うのです。

ものが何もない質素な中にも美しさを見出す。それは内面が耕されていないとできないことです。「何もない床」という潔さと、高い美意識があったからこそ、私たちの中には「凛とした佇まい」=清らかな空間への畏敬のようなものがあるのだと思います。夾雑物(きょうざつぶつ)のない、空間の清らかさに触れることで、気力が整う。リラックスする。そんな「もとい」の状態で私たちの精神を守り育んできたのが、日本人にとっての「床」のような気がします。

床とのコミュニケーションを豊かにするための新しい家具

和から洋に時代が移っていくにつれ、日本人の暮らしにとって「家具」があることが当たり前になり、私たちは家具とともに楽しく暮らすということを学んできました。
例えば、木の床の上に、木の家具を置いてみる。その心地よさを感じながら、しかし同時に床とダイレクトに対話してきた文化も長いため、ものを置いていない「何もない床」への憧れがある。私たちの深層心理のどこかに、やはり、身体感覚としての「床」の記憶を探し求める働きがあるのかもしれません。特に2000年代以降、その傾向が顕著になってきたように思います。日本人のデザインやインテリアへの意識が高まり、名作家具などを自宅に取り入れる家庭が増えたのも、ちょうどこの時期です。そしてその意識の高まりはさらに、「家具を選ぶ」という段階から「空間の質を調える」というところにまで発展しているように思います。空間の質を決定するのは床、壁、天井。その中で生活全体を支えるステージとなる床への関心は深まるばかりです。

すなわち「床材」をどうするか。そんなところにまで人々の興味が拡がってきた結果、提供されるお仕着せのインテリアでは満足できなくなり、住まい手が住空間に対してもっと自由にアイディアを広げたいと考えるようになったのではないでしょうか。例えば寝室は多少妥協するけど、リビングはお客さんもくるし、低いテーブルで床に直に座って食事をすることもあるので、床材にはこだわりたい、という人も出てくるわけです。

皆さんそれぞれに重点をおきたいところは違うはず。1人ひとりが自分の空間をつくるんだったら納得できるものにしたいという、住まいに対する美意識のようなものが高まってきていて、それが床にこだわる人が増えていることに繋がっているのだと思います。

そうした心理や意識を反映しているのでしょうか。最近は家具も、固定されたものではなくフレキシブルにスタッキングできる椅子やシェルフ、多機能で移動可能なワゴン、大きさや高さを使い方で変えられるテーブルなどが増えています。
「今日は皆で床の上にクッションを置いて、低いテーブルで居酒屋みたいに楽しもう」とか、「高いテーブルだけにして立食パーティー風にしてみよう」とか、家具との付き合い方も同質ではなくなっているということです。

「動かせる、大きさが変えられる、重ねられる」という3つの要素が、空間をできるだけ自由に使いたいという今の人たちの欲求を満たすために、家具に求められているわけです。そしてそのような家具が求められる背景には、床とのコミュニケーションを豊かにしたいという気持ちがあるように思います。
家族や親しい仲間と、床の上に体を預けて寛ぐ時間、あるいは木の床を第2の大地と捉えてヨガやストレッチなどを行ないリラックスする時間。「床」で過ごす時間が思いの外、多彩な魅力を放つのを感じると、床を起点にして家具に対して自由でありたいという気持ちも生まれてくるのかもしれません。

こうした感覚は日本だけでなく世界にも拡がってきています。ミラノサローネなどを見ても、できるだけ自然の近くにいたいという気持ちが高まっていますし、それは木という素材に対する尊敬として表われているように思うのです。
これからは、コストや仕様で決まっていたからという消極的な理由で床を選ぶのではなく、自分なりに納得できる物語の中で、木と木の床というものに、もう一度出会ってほしい。どの木にするのか、メンテナンスはどうするのか、海外の友人たちは、床の木の種類はどれが良いか、まるでワインを選ぶときのように楽しそうに話しています。

木で自分の人生の「物語」が語れる時代になってほしい。

家具を自分の人生の中で語れる人がこれだけ増えてきたのですから、きっとそれは可能なことだと思います。

人間が人間に還れる場所としての木の床の価値

都会の街にも「自然との調和」を謳っているところはありますが、やっぱり本当の森や自然の中にいるのとは違うということをみんな知っています。森の自然、木々のもたらす豊かな精神性から切り離されず、もっと近くなれるような環境で生きていくことができたら、人間はもっと幸せになれる。人間が人間に還れる場所としての「木の床」という価値が、これからさらに高まっていくと思います。

人間らしいという意味では、例えば、パリの古い住宅を訪ねると、とても遊び心を感じさせてくれる木の床と出会うことがあります。ヘリンボーンの柄に組まれた木の床などはまだ序の口で、部屋の入口のところが円形に木組みされた床、同じ部屋の中でいくつかのテクスチャーが混じり合っているもの……。木の床そのものを価値あるものにすると、それを「地」として、その上に置く木の家具とのバランスも取りやすくなります。
特に木の名作家具などは、人間の記憶の繫がりがある、しっかりとした木の床に置かれるのが、いちばんバランスが取れるのかもしれません。素材そのものの奥行きを感じさせる床に置くことで、人間の知恵と精神性の結晶である家具との釣り合いが取れて、腑に落ちる空間になると思うのです。

木の床は、人間を人間らしく育ててくれる人生のステージ、舞台そのもの。その上で、私たちはおしゃべりをしたり、人と気持ちを通わせたり、学んだり食べたりして成長していくわけですから、基礎の「木」といっていいぐらいではないでしょうか。

 

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